八重洋一郎 yae yoichiro


 

●著者略歴

1942年石垣市生まれ。東京都立大学哲学科卒業。詩人。詩集に『字彗』(1984年、第九回山之口貘賞)、『夕方村』(2001年、第三回小野十三郎賞)、『白い声』(2010年)、『沖縄料理考』(2012年)、『木洩陽日蝕』(2014年)、エッセイ集に『若夏の独奏』(2004年)、『詩学・解析ノート』(2012年)など。「イリプスU」同人。

 

●『太陽帆走』あとがきより

考えてみると私自身には基本的な三つの経験があるように思う。その一つは死への恐怖、あるいは存在しないことへの恐怖である。これは実に激しく、今でもその恐怖に脅迫されてものを考えているような気がする。もう一つは「もの」がそのものだけとして眼にうつるという経験である。例えば「手」を見ると手以外のものが一切消え失せ、つまり手の働きや手の身体との関係などがすべて見えなくなり、手だけがそこにあるということだけが見えるというような現象。それがどういう事態であるか今もよく解らず、例えばサルトルの「嘔吐」などと似ているようにも思えるがそうとも言えず、その対象が「人」である場合は、言ってみれば離人症ではないかと思ったりもする。三つめは、これは前二つとは異なって極めて幸福(?)な経験である。ある些細な前触れのようなものがあって、しばらくして何かはるかな感じ懐かしいような感じが起り、時間の意識がうすれ、ああ、今自分は生きているのだ、自分は時間を超えた何かに結びついていて静かに動けなくなっているのだというようなやわらかい切ない気持になるのである。この幼い時から続いている基本的な三種の経験が、私の読解に何らかの作用を及ぼしていると思う。

 

●『銀河洪水』あとがきより

コロナウイルスが跳梁し、ついにWHO(世界保健機関)がパンデミック(世界的流行)を宣言する事態となった。その不安の中で日々を過ごしていたが、ある時、ふと「メメント・モリ(死を銘記せよ)」という言葉が頭に浮かび、日が経つにつれて、それが重く伸しかかってきた。
私はこれまで歴史や思想や文学などについて非力ながらも自分の考えを詩の形で発表してきたが、「メメント・モリ」というこの言葉はこれまでの一切を総点検せよと迫ってきたのである。
さて、自分の過去の作品を読み返し、これからどうすればいいのかと考え考え新詩集をつくろうと、まず詩集名を『銀河洪水』と定め、詩を書き始めた。
これまでの詩の仕事の中で、私は三つの根本的経験をしているように思われた。その一つは言語における深刻な経験、つまり自分の感覚を保つために一つ一つの言葉を精査したこと。二つめは、これは西洋のことであるが、ヘーゲル哲学や、ニーチェの人間批判や、マラルメ、ヴァレリィに至るあくまで強者たらんとする意識と対峙してきたこと。三つめはこの宇宙は自分にとって何であるかを考えたこと。
私の最初の宇宙体験は、父が話してくれたハレー彗星との出会いである。父は一九〇一年生で前々回のハレー彗星出現時には十歳にならない子供だったから、その印象は強烈なものがあっただろう。その時の場面場面を時々語ってくれたのだが、それを聴く私は眼を大きく瞠き、その印象を拡大したのである。宇宙とは私にとって、今もって畏怖、神秘、童話の源泉なのである。
ところで私はつねづね「核戦争によって人類は滅亡するだろう」と思ってきた。それが今度の突発的異変によって「人類は核戦争によって滅びる前に、もっと実質的な人間生活の急変によって滅びるかも知れない」と考えるようになった。
例えば核兵器を製造するには高度な知識と技術と莫大な資金が必要であるが、日常生活においてはそれらは必要とされず、もっと基本的な各人それぞれの生活方向の選択によって世界の大きな様態が決まってくるのである。
人類はこれまで自然に対してあまりにも身勝手にふるまってきた。それが思いがけない異常状態を招いたに違いない。自然は反逆の意志はないが、もう衰弱してしまっているのだ。際限ない人類の自然搾取の結果、自然自身の防御能力が決壊し、バランスが崩れてしまったのだ。今度のパンデミックをなんとかやりすごしたとしても、また新しい崩壊が次々にやってくるだろう。
その自然破壊、自然搾取の最も代表的な例は、人間の欲望にもとづく資本主義経済であろう。ある時期までの資本主義は自らを持続させるために、そのシステムになんらかの修正を加えるだろうと期待されてきた。しかし現在、眼前にある資本主義はそんな生易しいものではなく、徹底的に利益第一主義を貫徹し、土地があるところ、人がいるところ、少しでも資源があるところに見境いなく侵入していくのだ。そして人、土地、資源を老廃物として捨てて行く。最終的には地球そのものを食い潰すであろう。
このように自己コントロールが利かなくなった資本主義は、はや、何かの病いに罹患しているのだ。もっと正確に言えば、人類以外のあらゆる生物にとって、欲に塗れた人類こそは避けることのできない病原なのである。人類は人類以外のあらゆる生物に対しても責任がある。
こういう緊急事態を前にしては、私のヴィジョンや作品などは、あまりにも哀れなものでしかないであろう。
しかしながら人類は人類を超えなければ滅亡するのである。滅亡しないために、一人一人が何か、何かを試みなければならない。
古代ローマ人は「死ぬ前に、生きているこの今を遊べ」と考え、宗教人は「この世のはかなさに気づき、来世のことを思え」と自戒した。私自身は、世界には、いかなる歴史や権力や経済的圧迫などとは別次元の根源的風景が在るのであり、それを描き出し「メメント・モリ」への対置を試みたのである。