「虹機械」初演に寄せて

三輪眞弘

 

今年の1月にICCで発表した「新調性主義」というコンセプトはその時点で多分に「見切り発車」だった。約5年間試みてきた「逆シミュレーション音楽」がひとつの節目を迎えた去年、その次に自分はどこへ向かうべきなのか、まだ考えている最中だったからだ。その頃、ぼくがいつも考えていた言葉がある。それは「接続せよ。」という命令だ・・何に何を「接続」するのか? 多分それは「またりさま」、即ち「逆シミュレーション音楽」というコンセプトを西洋音楽に「接続」することである。 もちろん「逆シミュレーション音楽」は、ぼくにとっての西洋音楽の文脈からでしか生まれ得なかったもの、つまり「西洋音楽の歴史を続けるならその先はこうなるしかないでしょう?」というぼくなりの結論だったのだから、初めからしっかりと接続されているのである。にもかかわらず表面的に、このふたつの距離はあまりにも大きく、それが西洋音楽、とりわけ「現代音楽」として試みられているということさえ、なかなか理解してもらえないもどかしさがあった。その距離を少しでも縮められないか? いや、西洋音楽のど真ん中で「逆シミュレーション音楽」を実現できないか?・・そのような夢がまず、「新調性主義」には込められている。しかし、それはつまるところ、西洋音楽の伝統によって生み出され、自分が死んだ後も(多分)生まれ続けるであろう西洋楽器を操る身体を前提にした音楽に再度挑戦するということに他ならない・・「何をいまさらアタリマエのことを!」と言われるのかもしれないが、これはぼくにとって決して自明のことではない。なぜなら「逆シミュレーション音楽」こそ、現代社会において西洋音楽に「すでに与えられたもの」としてきたすべての前提を徹底的に疑ってみる試みだったからである。今までに数限りない楽譜が生まれ、残り、それを演奏できる伝統的な技芸に習熟した身体が常に社会に存在してきたことは、そもそも、それが極めて人為的に成立しているものであるという意味で、ぼくにとっては驚くべきことなのだ。

ところで、この「逆シミュレーション音楽」がその根底に「あり得たかもしれない音楽」という発想を置いていたとすれば、ぼくが「新調性主義」なる言葉で試みようとしていることは多分「あり得たかもしれない西洋音楽」のことだろう。 ロマン派以後、つまり調性音楽放棄以後、西洋音楽が現在のような状態になったのは本当に必然だったのだろうか?・・もちろん、こんなことを考えるのは馬鹿げたことだが、ミニマル・ミュージックをはじめ、奇人変人扱いされてきたいわゆるアメリカの実験音楽と呼ばれる作曲家達の様々な試みを思い起こすとき、ヨーロッパにおける「思弁の音響化」として進んで行った「現代音楽」とはまた異なる、「あり得たかもしれない西洋音楽」の可能性を今更ながら感じるのだ。それは音律はもとより拍節の問題や演奏形態に至るまで、ぼくが「もし、自分だったら何を考え得ただろう?」と自問自答して思いつく、あらゆる可能性のほとんどがこのアメリカの作曲家達によって試みられてきたことを知れば知るほど、ぼくにとってそれは単なる個人の妄想で終わらない真実味を持って迫ってくるのである。

今回の新作にあたってぼくは再度、様々な西洋音楽の前提を考えなおしてみた。本当に舞台上で披露されるための音楽で良いのか?本当に聴衆の前で譜面台を立てて楽譜を「読みながら」演奏するのか?本当に12平均律を使うのか?そもそも本当に五線譜で、即ち発音されるべき音のピッチとタイミング(と、記号/言葉による僅かな指示)を指定する書式で書くのか?・・などなどである。一方「無調の音楽」や楽器演奏における様々な特殊奏法などは「あり得たかもしれない西洋音楽」を考える際には初めから問題にならない。なぜなら、それらこそが西洋音楽を現代の「音楽」ならぬ「現代音楽」にしてしまった掟やぶりの暴挙だからだ。何より「現代音楽」を除いて、地球上に調性のない音楽などあったためしなどなかったし、さらに西洋の楽器は徹底的に「非楽音」つまり雑音を排除すべく改良されてきたのも当然のこととして、特に「音色(楽器)に依存しない構造」を考えることが、少なくともぼくにとっての西洋音楽における「作曲」の神髄であるからだ。即ち西洋音楽とは「オーケストラで演奏できるものはピアノでも弾ける。その逆も真」でなくてはならない。

「接続せよ。」・・しかし、それを考えていくと結局、伝統的な普通の五線譜を使って普通の演奏会のための移調も転調も可能な調性音楽を書く、ということになってしまう。つまりそれは20世紀初頭に生きた作曲家達と同じ立ち位置なのだろうか?・・確かにぼくの目指すところは、表面的には100年前に「接続」することになるのかもしれない。実際、今回の新作でぼくは伝統的な西洋音楽のフォーマットを全面的に踏襲することにした。しかし、見かけは100年前と同じでも本質的な違いがある。 それは何より、100年前からまったく変わらなかった近・現代人の音楽に対する「信仰」の問題である。音楽とは「作家個人の内面(精神世界)を描いたものである」という信仰、つまり音楽は作家の思想を媒介するメディアなのだという暗黙の了解である。この信仰はまた「現代音楽」のみならず「時間的商品」であるポップスなど他の音楽ジャンルにおいてもまったく変わるところはない。しかし、グレゴリア聖歌どころか、例えばJ.S.バッハでさえ、心の内面を吐露すべく作曲したわけではないことをぼくらは知っているのだ。そうであるにも拘わらず「現代音楽」が調性や「楽音」をはじめとするあらゆる音楽の前提を放棄しても、この信仰だけは疑うことがなかったし、まさにそうだったからこそ西洋音楽は「思弁の音響化」という風変わりなジャンルに変質していかざるを得なかったのだろうとぼくは考えている。今「ありえたかもしれない西洋音楽」を考えるならば、まさにこの信仰、即ち「ロマン派の亡霊」こそが最大の問題となるのだ。

「逆シミュレーション音楽」の試みにおけるもっとも大きな挑戦もまた、当然この点だった。はたして作家の精神性なるものを一切排除したところで作曲/音楽はどうしたら可能なのか?・・そこでの答えは、コンピュータによってアルゴリズムを定義し、作家自身は直接個々の「音符」を選ばない「作曲」法だった。別の言い方をすれば、予測のつかない数列を生成するアルゴリズムを考え、その結果を作家自身が事後的に受け入れる、ということだ。(もちろん、実際は受け入れがたい結果が生まれることがほとんどなのだが)そこで重要なのは、ある意図した結果を得るためにアルゴリズムが決められたのではなく、アルゴリズム自体が自己目的化している点だろう。なぜなら、もしある目的のために作家がアルゴリズムを決めたとすれば、それは再び作者の意図の下に置かれ、「道具化」してしまうからである。このように「それそのものとして」アルゴリズムを扱うということはまた同時に、論理学的宇宙に向き合うということでもある。なぜならアルゴリズムにはひとつの偶然や気まぐれもあり得ず、それが論理的である限り、なんらかの数学的な構造があり、生成される数列はしかるべき「ふるまい」を生み出すからである。「逆シミュレーション音楽」は、この数学的システムにおける個々の演算も含めたすべてを、(コンピュータを使わずに)人力で行い、その演算過程を「音楽」として愛でる試みだった。「アルゴリズムとその初期値を定義した人」としての「作者」は存在する一方で、奏でられるすべての音の根拠は、作家の個性とは無縁な、この論理学的宇宙に属するものに他ならない。

しかし、アルゴリズムという「自動機械」によって選ばれた音の集まりは一体、音楽と呼べるのか?・・そう問うよりも、ぼくは逆に「音楽とは規則に従って選ばれた音を身体を使って発音することである」と新たに定義しようと考えた。それはアルゴリズム、即ち論理機械であるコンピュータに書き込まれたプログラム・コードの、人力によるリアライゼーションであり、演奏家は音符というフォーマットに変換されたデジタルな演算結果を読み取り、アナログ次元で発音する「D/A変換器」ということになる・・・「それではまるで人間が機械の奴隷ではないか?」、そう感じる人がいるかもしれないが、まず何より人間の演奏家が従っているのはコンピュータという物体ではなく、コンピュータを使って「発見」された、人間の理性でしか感知できない論理学的宇宙での出来事なのである。また、もともと楽譜というもの自体が命令としての暴力的な本質を持っているわけだが、その権威は、J.S.バッハの時代までは神が、そしてロマン派からは(神になった?)人間/作曲家が保証してきたのだろう。しかし人間が従うに値するのは人間ではなく、人間を越えた何かであり、ぼくにとってそれはいまのところこの論理学的宇宙なのである。そして人間が、自由ではなく、人間の都合ではどうにもならない「途方もないもの」に徹底的に従うところに、音楽/芸術は成立してきたのだ。ただし、徹底的に従うのは演奏家だけではない。作曲家もまた、無限にあり得るアルゴリズムから手探りでそのいくつかを選び取り、組合せ、プログラムし、(その結果は人間には予測不可能だから)検証する作業をいつ終わるという保証もなく繰り返し続けることになる。もちろん作曲家はアルゴリズムをいくらでも書き直すことができるが、その(計算)結果に対しては徹頭徹尾受け身でしかなく、作曲家は奇跡のようなアルゴリズムや初期値との出会いを求め続ける修行者のような存在となる。それはまるで、アボリジニの通過儀礼のように少年が自分の歌を探しにひとりで旅に出るのと似ている・・というのはあまりに「ロマンチック」だろうか?

再び「接続せよ。」・・この命令はまた、「方法マシン」(からはじまった「手順派」)の試みを西洋音楽の技芸に「接続」するという意味でもある。現実に存在しない「あり得たかもしれない技芸」を、この世界で実現する「方法マシン」のコンセプトを既存の西洋音楽に重ね合わせること。それは長い伝統によって育まれてきた楽器や演奏技法、様式などをすべてリセットし(たとえそれが不可能なことだとしても)、演奏家を楽器という物体の特性をを知り尽くし磨き上げられた運動能力を駆使して定められた音を"発音"する高性能で普遍的な「マシン」だと考えてみることだ。そしてそれは決して人間中心主義的な西洋の文化や伝統に対する叛逆ではなく、むしろ西洋音楽が目指してきたこと、そのものであるに違いない。演奏家に限らず、今では最も保守的なオーケストラにおいてでさえ、例えばベルリンで初演された難解な「現代音楽」作品が、まったく別の人達によって何の問題もなくニューヨークでも東京でも再演可能なのである。「音楽/演奏」から民族性や地域性をはじめとするあらゆる固有性を剥ぎ取り、規格化し、「グローバル化」即ち普遍化することは西洋音楽が行き着くべき当然の帰結でしかない。そして、いや、だから、「虹機械」は、至極まっとうな楽譜で書かれているにもかかわらず、とてつもなく演奏困難な作品になった。なぜなら演奏家はおろか楽器の都合も原則として考慮せずに、とにかくこの現代にしかあり得ない音楽を「作曲」したかったからだ。そして楽譜として定着されたこの作品を、ぼくはどうしても西洋音楽の文脈の中で聴いてみたい、バイオリンとピアノのために書かれた古今の名作において味わったことのない音楽の時間を体験してみたいのだ。もし、その実現=演奏が不可能だと言うならば、それを可能にすべくさらに演奏能力を高めるか、そのために新しい技法や練習メソードを開発するか、楽器を改造するか、さらに扱いやすい新楽器を発明するか、とにかく何か知恵を絞るしかない。西洋音楽においては、少なくとも100年前まではそうしてきたのだから。<ごめんなさい、ROSCO・・

「新調性主義」は、音楽においてもまた、徹底的に普遍化し規格化した現代社会の中で、常に唯一の出来事=音楽=美を成立させるための試みであり、西洋音楽の「伝統」という死亡宣告に対するはっきりとした反抗である。12平均律における協和音程の原理を内包したアルゴリズムによって、脳の拡張としてのコンピュータが選び出した音符を、身体の拡張としての楽器が響かせるその瞬間こそ、現代のテクノロジーが伝統的な技芸/身体にはじめて「接続」されたときであり、それがアジア地域において実現し、「ロマン派の亡霊」が消え去るまでには100年の歳月が必要だったと考えてみてはどうだろう。そして、他のどの民族文化においてもあり得ない、そのような挑戦がまだ「西洋音楽」には可能なはずだとぼくは信じたい。

 

※本論考は、10月11日の「現代音楽の冒険・三輪眞弘の世界」(新宿文化センター小ホール)で初演される新曲「虹機械」の制作意図を示すものとして執筆されました。